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天は我らを見放したようだ。



●序文

2020年10月25日、天候曇&雨。
青森県の十和田市から青森市を経て弘前までサイクリング。
八甲田の北麓、十和田~青森市の県道40号(青森田代十和田線)を走った。
県道40号の一部は、明治35年に日本軍(青森連隊)が雪中行軍で遭難した経路。
果たしてどんな険しい道なのか、気になったので冬が来る前に走ってみた。


●経路・行程概説


[諸表]

  • 経路総長:102km
  • 累積登坂:1,170m

[道路名称]

  • スタート:十和田市街
  • 国道102号~道の駅”おいらせ”
  • 県道40号~田代平
  • 県道40号~平沢第一露営地
  • 県道40号~鳴沢第二露営地
  • 県道40号~雪中行軍遭難記念像(記念?)
  • 県道40号~中の森第三露営地
  • 県道40号~陸軍幸畑墓地&遭難資料館
  • 県道27号~浪岡
  • 国道7号~弘前
  • ゴール:弘前市街

●行程記録

●十和田市街スタート、県道40号で八甲田方面へ

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十和田市街を抜けて県道40号に乗り換え。
出発後、1時間もしない内に雨が降ってきた。

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熊ノ沢川沿いに登り基調の道。
雨避けになるスノーシェッドはありがたいな。


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八甲田の東麓、広大な裾野に広がる紅葉は見事。
しかし風が強くて寒い。


●冷たい雨の降る八甲田山の麓

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落雪防止か?変わった羽の付いたトンネルを越える。

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トンネルを越えると薄ら寒い景色が広がっていた。
山の吹き降ろしか、西よりの風はすさまじかった。

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展望地の駐車場で焼き芋を買って東屋で休憩。
風がバリバリ吹いていたので短い休憩になった。

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田代高原に向かう道中、道沿いの紅葉は見頃だった。
道路標示に”雪中行軍銅像”の案内がある。
いよいよ八甲田雪中行軍のルートに近付く。


●八甲田北麓、田代平キャンプ場

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遠目には独立峰にも見えるが、複数のカルデラ火山から成る八甲田山。
一番高い大岳は標高1,585m。青森県最高峰だが高山といえる高さではない。
しかし秋の麓でも十分寒い。冬に吹雪いたら恐ろしいだろうな。

キャンプ場近くにあった又兵衛の茶屋で昼食休憩をとり、遭難ルートに向かった。

●田代平の紅葉

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県道40号、田代高原の紅葉。
紅葉というより黄葉だが、明るく染まった森の雰囲気は見事。

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そろそろ日本軍が遭難してビバークした地点。
今は道が整備されているためか、周りの地形や道は険しそうに見えない。


●八甲田山雪中行軍、平沢第一露営地

明治35年、日本軍は厳寒の日露戦争に備えて冬の八甲田を越える雪中行軍を実施。
同年1月23日、青森歩兵第5連隊は青森駐屯地から田代~三本木(十和田)~八戸を目指して出発。
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しかし行軍初日、田代の手前で暴風雪に見舞われ平沢でビバークを決定。
気温はマイナス20℃以下、深さ2.5mの雪濠で立ったまま、座るスペースがなく露営。
煮炊きも思うように進まず、まともな食事もとれず、
”眠れば死ぬ”ため、軍歌を歌うなどして、ほぼ眠らずに夜を明かしたという。


●行軍2日目、遭難。半日で行動距離わずか1km弱

第一露営地で凍死者の虞も出たため、隊は行軍を中止して帰営を決定。
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寒さで朝の出発を待てず、隊は未明の午前2時過ぎに平沢露営地を出発した。
しかし、鳴沢の峡谷に迷いこんでしまう(遭難発生)

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迷ったので平沢露営地に戻ろうとするが、ここで

S特務曹長 「田代への道を知ってます」
Y少佐   「よし、案内しろ」

しかしS特務曹長は道を誤って駒込川へと出てしまう。
しかも歩いてきた道は雪に消されてしまった...

そして駒込川から鳴沢へ戻る途中から凍死者が出始めて隊の士気が下がる。
凄まじい暴風雪により隊の1/4が凍死。動ける者も装備を棄てていたという。


●吹きさらしの鳴沢第二露営地、連隊は死の彷徨へ

半日かけて、鳴沢で窪地を見つけた隊は2日目の露営地とした。
平沢の露営地からわずか1km弱の地点。
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雪濠を掘る道具を持った隊員がいなくなったため、鳴沢の露営は吹き曝しだったという。
食料は全て凍結してほぼ食べられず、前日の不眠・疲労もあり凍死者が続出。
極地のペンギン状態で夜を越せるはずもなく、隊は3日目の未明に馬立場に向けて出発。
しかし、コンパスが凍ったため移動は地図と勘頼み。

●3日目 死の彷徨へ、天は我らを見放したようだ

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行軍3日目以降の事実は諸説混じって正確なことは分からない。
後藤伍長(生存者)の話では、3日目に指揮官が隊員に
「ここで部隊解散、各自で青森へ帰ること」と部隊解散を命じたというが、
他の生存者、伊藤中尉はこれを否定しているという。

もはや全員が寒さでまともな判断ができなくなっていたのだろう。
3日目で当初210名の兵は70名弱、既に壊滅状態だが翌未明には更に減ったという...
4日目に状況をおかしいとみた青森駐屯地から捜索隊が派遣された。


●5日目、捜索隊が仮死状態の後藤伍長を発見

捜索隊は今の青森市南東、田茂木野から駒込川沿いに進んでいた。
神成大尉の率いる隊が、その逆ルートで帰営行動をとっていたが凍死者が続出。
ついに神成大尉も倒れて、動ける隊員は後藤伍長ただ一人となった。

神成大尉は後藤伍長に”田茂木野の住民に我々の遭難を知らせよ”と伝令を命じる。
そして後藤伍長は一人で田茂木野へ向かうがーー

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5日目の午前、三神少尉率いる捜索隊が雪の中に直立している兵を発見した。
田茂木野から県道40号でおよそ6km手前の地点、後藤房之介伍長だった。
後藤伍長の報告により、第五連隊の遭難が判明した。
※後藤伍長の銅像は実際の発見地点とは異なる

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後藤伍長の付近を捜索すると、100mほど先で神成大尉、及川伍長が凍死していた。
気付け薬の注射針が折れるほどに体は凍り付いていたという...

”もはや壊滅のようです”と捜索隊は連隊本部に報告。
”行軍は順調に進んでいる”と思い込んでいた連隊長は硬直。


●春以降まで続いた遭難者の収容

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行軍開始から5日目以降、捜索は続けられたが、
捜索隊も2時間で半数が凍傷で動けなくなるなど、八甲田の冬は過酷極まる環境。
その後、軍の捜索隊の他、雪山のプロとして北海道からアイヌの人達を雇った捜索が行われた。
それを見て鼓舞されたのか、地元民も捜索に加わり遭難者の収容が進んだという。
最後の遭難者(死亡)は5月に見つかった。

●幸畑陸軍墓地

青森第5連隊の隊員が眠る墓地。
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遭難した210名中、生存者は11名。
現在存命者はいない。
ご冥福を


●八甲田山雪中行軍遭難資料館

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幸畑墓地の横に立つ資料館。
行軍計画・装備・遭難状況を説明する地形模型・フィギュアの展示がある。
当時の背嚢を背負えるコーナーがあったが、
”意外と重くない、というかこれで雪山へ?”と不安を感じる装備だった。
主な物資輸送はソリ(人が引く)に頼っていたという。
しかし、ソリは重すぎて遭難途中で破棄されている...
装備のバランスって重要だな。


●青森市から弘前へ

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遭難資料館を見物後、青森市街から弘前へ向かった。
八甲田の雪中行軍は青森第5連隊だけでなく、弘前31連隊も実施していた
31連隊は入念な準備・計画により11日間で十和田・八甲田含む200km以上を踏破した。
弘前連隊の成功は過去の行軍で得た雪山対処の試行錯誤があってこその物と言われている。
やはり雪山は軽率に入るもんじゃないな。


●跋文

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今回は青森県の十和田から青森市を経由して弘前までサイクリングした。
目当ての県道40号は一見、紅葉の綺麗な普通の県道だなあ、と感じたが、
道沿いの露営地跡・遭難碑・墓地を辿ると色々と考えさせられた。
秋の雨でも十分寒い八甲田、厳冬期の吹雪は想像もつかない。